ログイン三歳の誕生日だったあの雪の日、わたしには新しい家族が出来た。お父さんとお母さん。四歳お姉さんの|依子《よりこ》と一歳下の妹、|陽愛《ひより》。
最初は緊張したけど、やがて家族にも受け入れられてとても幸せな時間を過ごしていた。
だけど数年で家族を悲劇が襲った。わたしが五歳の時、お父さんが事故でこの世を去ってしまう。とても優しいお父さんで、わたしも大好きだった。
悲しみに暮れていたわたし達だったけど、お母さんは子供たちを育て上げるという重責を抱え、女手一つで仕事を掛け持ちして孤軍奮闘。そんな時、久々のお母さんの休みに家族で見学に行った子供向け番組のスタジオ収録で、わたしはスカウトされた。
「あなたなら十年に一人の逸材になれます!」
鼻息荒く必死に説得してくるスカウトのお姉さん。
「ゆきは百年に一人だ!」
「ゆきちゃんすごーい!」
より姉とひよりも興奮している。ただ一人、お母さんだけは困惑気味。
「ゆきはどうしたい? お母さんは無理強いしないよ。ゆきがやりたいなら応援するし、嫌ならお断りするわよ」
お母さんはきっとわたしの事を考えてくれている。だけど、わたしだってお母さんのお手伝いがしたい。
テレビヘ出るようになればお金がもらえる。わたしもお母さんの役に立ちたい! これもわたしの「使命」のひとつだとするならば。わたしは二つ返事で引き受けた。そしてそれがわたしの人生を決定づけることになる。
「え!? 男の子!?」契約書にお母さんが必要事項を記入していると、スカウト兼わたしのマネージャーとなるお姉さんが驚きの声を上げる。
野太い声が出ていたから、心底驚いたんだろう。「やっぱりまずいですか? どう見ても……ですもんねぇ」
いやお母さん。そこは濁さなくてもいいよ。
みんなが可愛い可愛いと育ててくれたおかげで、髪は伸ばし続けて背中まであるし、そっちの方がいい! という勧めで自分のことも「わたし」と呼んでいる。 どこからどう見ても女の子だよね。「いえ! これは逆にチャンスかもしれません! 経歴も、キャラクターの設定も性別不詳ということにしておきましょう! ミステリアスで受けますよ!」
子供向け番組にミステリアスは必要なのかな?
「ゆきちゃんという名前も男女どちらでもおかしくないですしね。芸名は一ノ瀬雪。キャラクター名は『ピーノちゃん』で!」
だっさ。
もうちょいならなかったのかな、ピーノちゃん。大人の言うことだから口出しはしないけど。
「それでゆきちゃん、何か得意な事ってある?」
マネージャーの質問にわたしは自信満々で応える。
「歌とダンス! 自分で作った歌と振り付けもあるよ!」
きっとその時のマネージャーさんは子供が作った稚拙なものを想像していただろう。
だけどその曲とダンスが、いくらかの手直しをしたとはいえ誰もが口ずさむ国民的な大ヒットを飛ばすことになる。ピーノちゃん=ふわふわダンス。
ネーミング……。
それでもわたしの歌を聴いた人はみんな笑顔になり、一緒に踊ってくれる。
これだ!
わたしの果たすべき使命。「人々を幸せにする」ために、わたしが出来ることはこれしかない。歌とダンスを通して世界に笑顔を届けよう! そして神童、天才子役ともてはやされるにつれ、わたしの周囲にはわたしではなくわたしの生み出すお金だけに用がある、汚い大人が寄ってくるようになった。それはまだ幼いわたしにはとてもいい環境とは言えなかった。
幼いころから人の顔色を読むことが得意だったわたしには、表面上笑顔でも、その人の本音が透けて見えてしまう。『子供のくせに』『ちょっと売れたからと言って調子に乗って』『お金を生まなければ誰がお前なんかに頭を下げるか』
そんな裏の声がどうしても感じ取られてしまい、徐々に笑顔の減っていったわたしは結局活動期間一年にも満たず、芸能界を引退してしまった。
世間からは惜しまれたけど。わたしがお仕事を辞めてしまったおかげで、またお母さんに負担をかけてしまうことになると思っていたけど、お母さんはわたしの稼いだお金に手を付けていなかった。
「ちょうどいい縁があってね。とても割のいいお仕事を紹介してもらったから大丈夫なのよ」
ごめんなさいとしょげるわたしの頭を撫でながら、問題はないと言ってくれるお母さん。仕事をしながらわたしのサポートをしてくれていたお母さんには感謝をしてもしきれないや。
だけど、そのお仕事を紹介してもらった縁もあって、わたし達に家族が増えた。
新しいお父さんと、二歳年上の|楓乃子《かのこ》姉さんと一歳上の|茜《あかね》姉さん。かの姉とあか姉。お父さんとお母さんは同じ会社の同じ部署で働いている。
そして、会社で新しく立ち上がったプロジェクトに夫婦で抜粋されたこともあり、わたしたちはアメリカへと移住することになった。期間は四年。最初は言語の壁に苦しんだけど、わたしがいち早く英語をマスターし、家でも極力英語を使うことによって家族も慣れていき、四年が経つ頃にはみんなペラペラ。
「これで就職にも有利になるな」
より姉は現金な事を言っているけど、まぁあながち間違ってはいないか。
そしてプロジェクトは無事大成功に終わり、いざ日本へと帰ってきたんだけど。 今日は新しい学校への転校初日。ひよりの中学進学に合わせて帰ってきたので、世間も今日から新学期だ。いつもならみんな一緒に家を出るんだけど、日本に帰って最初の登校日ということでテンションの上がったわたしはみんなの準備を待つことが出来ず、先に家を出てきてしまった。
一人機嫌よく通学路を歩いていたんだけど……。
視線を感じる。しかもたくさん。ゴチン!
漫画でしか聞かないような擬音を聞いたと思ったら、若いサラリーマン風の男の人が電柱にキスをしていた。
うわぁ、痛そう。
でもなんか面白い。恥ずかしそうにこちらを伺うその人と目が合ってしまい、つい微笑んでしまった。
首を絞められたような表情になり、顔を真っ赤にしてしまう男性。そりゃ恥ずかしいよね。
「はぁ。日本に帰ってきても反応は同じか」
子役の頃からなので慣れてしまったとはいえ、この歳になると複雑なものがある。
腰まで伸びた艶やかな黒髪に、音がしそうなほど長いまつ毛。日本人とは思えない長い手足にくびれたウェスト。
ブラコンな姉妹たちいわく「神の細工とも言うべき黄金比で作られた人類の至宝」だそう。なんだそれ。
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常日頃から「お前は美人過ぎるんだから男には気を付けろ」と言われてるんだけど、男が男に何を気を付けると言うんだろう。
可愛いと言われるのは正直嬉しいし、女の子と間違われても別に悪い気はしないんだけど、こちらも年頃の男の子。
時には「男前」とか「かっこいい」なんてことも言われてみたいという希望もそこはかとなくあったりする。無理なのは知ってるけど!「うわぁキレイ」「モデルさん?」「同じ日本人なのかなぁ」
そんな声を背中に受けつつ、紺色のブレザーとアンバー色のスラックスに身を包んだ|男|子《・》|生《・》|徒《・》は学校へと急ぐのだった。
ほどなくして学校に到着。転校初日ということでまずは職員室へ。「失礼します。本日転校してきました、広沢悠樹です。よろしくお願いします」
少し緊張しながらも扉を開け、自分の名前を名乗ったところ、職員室内にどよめきが走る。あーそうなるよねぇ。
転校生は男子生徒と聞いているはずなのに、現れたのはどう見ても女の子。
「え、悠樹さん? 茜さんでも陽愛さんでもないのよね?」
若い女性教師が声をかけてくれた。
「あはは。正真正銘の悠樹です。こんな見た目なのでビックリするかもしれませんが、ちゃんと男の子です」
「はぁ。世界は広いわ……」
まさかのワールドクラス? 感嘆してくれるのはいいけど、せめて国内に収められなかったのかな。
転校の手続きはお母さんが全部済ませてくれていたので、その後はまだ時間があるということで応接室にて待機。するとあか姉が登校してきた。
「……」
無言で睨んでくるし。
「ごめんて。早く学校に行きたくて待ちきれなかったんだよ」
「それは分かるけど。ひどい」
あか姉が立ち上がり、そばに寄ってこようとしたところで先生が入ってきた。危ない。隙あらばすぐにスキンシップしようとして来るんだもんなぁ。この姉妹。
最初に応対してくれた女性教諭がわたしの担任で、福山瑞穂というらしい。なるほど、みずほちゃんか。
あか姉の担任は男性教師だけど、物腰の柔らかそうな人でよかったね。あか姉とは職員室前で別れ、わたしとみずほちゃんはクラスへ。
アメリカに移住したときにも経験したけれど、転校初日にクラスへ顔を出す瞬間というのはどうしても緊張してしまう。人間第一印象が大事だしね。 ここは一発かましておくか。「それじゃ、名前を呼んだら入ってきてね」
そう言い残して教室に入っていったみずほちゃんの口から転入生が来たことが告げられる。
「おれ職員室のところで見た! めっちゃ可愛い子!」「マジか! これは学校生活に華があっていいな!」「ちょっと男子、どういう意味?」
口々に転入生への期待を述べる生徒たち。わたし男なんだけど。なんか申し訳なくなってきたぞ。
「みんな残念。転入生は男の子よ。でも見たらきっとビックリするわよ」
ちゃんとみずほちゃんが真実を告げてくれた。ビックリするというのは、やっぱこれだろうなぁ。
自分の髪をいじりながら、これから先の展開に一抹の不安を覚えてしまう。「なんだ男か」「んじゃ興味ねーや」「男子、サイアク」「でもビックリするってどういうことだろ」
男か女でこんなにも対応が違うのか。これってある意味男女差別じゃない?
騒がしい教室内をみずほちゃんの声が制した後、名前を呼ばれたので静かに扉を開け、ゆっくりと扉を閉めてから教壇に登って前を向いた。
「え?」「は?」「男……へ?」「俺が見た子……?」
まず第一印象はメダパニといったところか。落ち着け男子。
「うわ、綺麗」「足なっが!」「顔ちっちゃい」「男子に負けた……」
女子はというと、いろんなパーツに目が行くようでまるで品評会をされているような気分。
「はいはい、みんな気持ちは分かるけど騒がないの。それじゃ自己紹介をよろしくね」
さすが日本の学校。先生の一言であれだけ騒がしかったのが静かになってしまう。アメリカではこうはいかないもんなぁ。
「初めまして。本日転入してきました広沢悠樹です。こんな見た目をしていますがれっきとした男の子です。先日までアメリカにいたので、日本の事を忘れている面もあるかもしませんが、いろいろ教えてくれると嬉しいです。よろしくお願いします」
そう言って深く頭を下げる。
「キレイなお辞儀ね。何か習い事でもしてるのかしら」
感嘆した様子でみずほちゃんが聞いてくる。
「ダンスが好きで。日本舞踊も習ったのでそのおかげかもしれません」
「なるほど。みんなもいろいろ聞きたいことがあるでしょうけど、それは休み時間の時にでもね。それじゃ、ホームルームを始めます」
その後はつつがなくホームルームと授業が進行していったんだけど、その間も痛いほどの視線を感じていた。
そして予想していた通り、休み時間には人だかりが出来て質問の嵐。 日本の学生って転校生にこんなにも興味があったっけ?同じく今日が転校初日にあか姉とひよりも心配になったので連絡してみたのだけど、あちらはいたって平穏な様子。
やっぱりこの正体不明な見た目が原因か。要するに珍獣。不本意だけど、拒絶ではなく歓迎はされているようなので良しとしよう。
それにしても話しかけてくるのは女子ばかりで、男子は遠巻きに見るばかり。動物園のサルみたいだ。
別にいいんだけど、女子のやたらと多いボディタッチにはまいった。こちとら年頃の男子なんでい!
おさわり禁止!なんて言えるわけもなく、結局放課後にひよりたちと合流するまでおもちゃにされてしまうのだった。
疲れた。
リスナーさんの前で復帰祝いの唄を披露し、失敗してしまったあの日から一年以上の月日が過ぎて、わたしは二十二歳になった。 そして今、わたしはある一室にいる。 「わたしはもっとみんなの近くで唄いたい!」 そう宣言してから半年以上、わたしはリハビリとボイトレに励み、そして自分の声を完全に取り戻した。いや超えた。 かつての音域からさらに半オクターブ、広げることができたのだ。 そしてわたしはボイトレに励みながら、ある計画を実現させるためにかつての自分の考えを覆す決断をしていた。「それではその時は全面的にプロデュースをお願いするということで。利益の取り分は書面通りで構いません。よろしくお願いします」 かつて大阪で琴音ちゃんを通じて知り合った女性プロデューサー、五代さんに向かって頭を下げる。「こちらとしてはどんな条件であれ、ゆきさんに来てもらえるなら大歓迎です。でも一体どういった理由で心変わりを?」 芸能界という世界を毛嫌いし、関連するようなところとは極力距離をおいてきたわたしが突然こんなことを言いだしたのだから、疑問に思うのも当然だろう。「確固たる目的のためです。わたしが以前、脳の障害で一年以上昏睡状態にあったのはご存知ですよね?」 黙って頷く五代さん。 ネットどころかオールドメディアでもニュースになったような出来事だから知っているのは当然だろう。いや、その仕事からしてたとえニュースにはなっていなくとも、彼女ならそのネットワークで情報を得ていただろうと思う。「元々わたしは幼いころから脳の障害を抱え、余命も宣告されていたことから生きることに対して諦めの気持ちがありました。だけどそれを変えてくれた人たちがいた」「お姉さん達ですね」 意外な人から突然核心をつかれてしまったことに驚き、わたしは目を見開いた。どうしてこの人がそのことを? わたしの疑問が顔に出ていたのか、五代さんはふっと笑うと以前は見せることのなかった柔和な表情を浮かべた。「ゆきさん、わたしは何も企業利益だけを考えてあなたに声をかけたわけじゃありませんよ。わたし
「みんなただいま!」 ようやく帰宅許可が下り、無事退院となったその日。 我が家では家族全員が休みを取って快気祝いのパーティーを準備してくれていた。「「「「おかえり!」」」」 声を聞くだけで分かる、心から待ちわびていた祝いの言葉。 お母さんから始まって、家族全員とハグをした。この辺はアメリカ生活をしていた名残なのかな。 お父さんは少し恥ずかしそうにしてたけど。息子相手なのになぁ。「それで、もう日常生活に支障はないのか?」 より姉が気づかわしげな視線で尋ねてきたので、わたしは元気をアピールするために腕をぐるぐる回してみせた。「この通り、すっかり元気だよ! まだ激しい運動は止められているけど、軽い筋トレくらいなら大丈夫。日常生活の筋力を取り戻すためにも家事は積極的にやってくださいだって。だから明日からはまたわたしがご飯を作るからね!」「……!」 みんな声にならないほどの衝撃を受けている。え、わたしがご飯を作るのってマズイ?「ま、またゆきのご飯が食べられる……」 両手で口を押さえたお母さんが感涙にむせぶ。えぇ、そんなに!? かの姉とあか姉は無言で両手を天高く突き上げている。一片の悔いなし? そしてより姉とひよりに両サイドから抱き着かれてしまった。「一年半ぶりのゆきちゃんの手料理! もう今からお腹が空いてきたよ!」 明日まで待ってたら餓死しそうだね。「いかん、よだれがとまらん」 本当によだれを垂らしてしまうより姉。乙女のする顔じゃないぞ。 でもこんなに待ち焦がれてくれていたとなれば腕が鳴るというもの。明日は目いっぱいご馳走を作ろう。「でも思ったよりも早く退院できましたね」 ようやく気分の落ち着いたかの姉がオードブルの並んだ食卓につきながら、感心したように言って来た。「そうだね。若さもあるけど、それ以上に頑張ったしね」 最初は半年の予定でリハビリプログラムを組
立てるようになってからのリハビリは、想像していた以上に大変だった。 平行棒、杖、歩行器を用いて転倒防止に注意しながら、重心移動や筋力向上、正しい歩行様式を取り戻していくのは一朝一夕にできるようなものではなく、なかなか思うように動いてくれない体に苛立ちを覚えつつも地道に筋力を蓄えていく作業。 下手に頑張りすぎると逆効果になると分かってはいるけど、一日も早い復帰を願う気持ちはなかなか抑えられるものでなく、遅々として進まないリハビリプログラムにヤキモキしていた。「さすが若いだけあって回復が早いですね」 歩行訓練後のマッサージをしてくれながら、理学療法士の飯島さんがそう言ってくれる。「自分では回復が遅く感じてしまい、どうしても焦ってしまうんですけどね」 どうしても頭をもたげてしまう焦りの心。 愚痴をこぼしたところでどうにもならないとは分かっているけど、ずっと優しく指導をしてくれる飯島さんにはつい甘えてしまう。「早くおうちに帰りたいですもんね。でもね、わたしもあなたのファンだから言うけれど、待っている側からすれば焦って戻ってきて取り返しのつかない後遺症が残るくらいなら、何年でも待つから万全な状態で戻ってきてほしいと願うものですよ」 優しい手つきでふくらはぎを揉み解しながら、それ以上に優しい笑顔を見せてくれる飯島さん。 リハビリが始まった当初からわたしのファンを公言していて、担当が決まった時には飛び上がって喜んだそうだ。 そんな熱心なファンをしてくれている彼女の言葉だから信じたいけれど、どうしても不安な気持ちは拭えない。「飯島さんはそうかもしれませんけど……」 八つ当たりにも似た発言だけど、飯島さんは気分を害した気配すらなく、穏やかに話を続けた。「不安になるのも分かりますけどね。ファンを信じるのもアーティストとしての務めじゃありませんか?」 ただの弱気の吐露にも関わらず、温かい表情で返ってきたその言葉に、わたしの中の何かが動いた。 今まで明確に意識したことはなかったけれど、わたしもアーティストの端くれな
リハビリをやり始めてから比較的すぐに自力で立ち上がれるようになった。 だけど、そこからが過酷な日々の始まり。 最初は一歩二歩と歩くだけで滝のような汗をかき、心拍数も爆上がりしてしまったのでその時点でリハビリ中止。 その後も数日間はトライしては中止の繰り返しで一向に進まない。 そこで体力の回復が先決だと判断した先生の指示により、立って歩くよりも先に長時間座ることから始めることにした。 ただ座るだけと思って侮っていたけれど、すっかり体力の衰えてしまった体にはこれが存外キツイ。 スマホを触って気を紛らわせているとはいえ、最初は二時間程度で音を上げてしまった。 だけどそれも繰り返すうちにだんだん苦ではなくなっていき、半日座っていられるようになった頃にはかなり体力も回復していたようだ。 その後に始まった歩行訓練でも最初のように滝の汗をかくことはなくなり、ようやく日常生活に向けての第一歩が始まった。「今日はね、リハビリ室の端から端まで歩けたんだよ」 嬉しそうに報告するわたし。「ふーん」 なんだか気のなさそうな返事をするより姉。「あれ? なんか怒ってる? わたしのリハビリが進んでるのが嬉しくない?」「いや、そんなわけないんだけどな。ゆきがどんどん元気になっていってるのはそりゃ嬉しいさ。でもな」 なんだろう。リハビリとは関係なさそうだし、他に何か怒らせるようなことしたっけ?「ゆき、何か報告しておかないといけないことを忘れてないか?」 報告? ずっと病院にいるわたしがリハビリのこと以外で何を報告することがあると言うんだろう?「何のこと?」 本当にわからない。わたしがより姉を怒らせるようなことなんて皆目見当もつかないよ。「茜とのことだ」「ひうっ!」 突然あの日のことを突きつけられて、ビックリすると同時に思い出してしまったので変な声が出た。「なんだその奇声は。茜が自慢気に話してたのは本当だったのか……。てっきりあいつの作り話だと思ってたのに」 カマかけられた! でも本当のことだから嘘をつくのもなぁ。「それで、だ。ゆき」 改めてわたしの方へと向き直るより姉。対して被告人よろしく姿勢を正すわたし。「正妻の立場としてはだな。茜がしてもらった以上は同じことをしてもらう権利があると思うんだが」 いや、あれはわたしの方からやったわけじゃな
「みなさん、こんにちは。どうもご無沙汰してました。雪の精霊、YUKIが今日もみんなに幸せを届けるよ! とまぁかつてのテンプレ挨拶をぶちかましたわけですが。みなさん、本当に長い間お待たせしました! ゆきはこの通り見事復活を果たして今ではピンピンしていますよ。 眠りこけていたおかげですっかり体がなまってしまったので、しばらくリハビリが必要なんですけど、またみんなに歌声を届けられる日が来るのも近いです」 ひよりに撮影許可とノートパソコンを頼んだ次の日、今日の当番だったあか姉が許可を取れた情報と共に届けてくれた。 そのパソコンを使ってさっそく配信予約を取り、夕食後の十九時に配信を開始した。 配信の告知をしたのは昨日なのに、みんな余程待ちかねてくれていたのか同接は60万人オーバー。 倒れる前の50万人を大きく上回る結果となった。「たくさんの人が見に来てくれて、それだけわたしの歌声がみんなに求められているんだと思うと感無量です。変わらぬ応援にとても感謝しています」 あまりのありがたさに思わず涙ぐんでしまう。だって一年以上ものブランクがあって、それでもこれだけの人が集まってくれるのが嬉しくて、ありがたくて。【歌ももちろんだけど、ゆきちゃんの顔が見たかった】【元気そうで安心した】【ゆきちゃんの姿を見たら涙が出てきた】【ほんと、おかえりなさい!】 歌だけじゃなく、わたし自身をも待ってくれていたというコメントに、とうとう涙が溢れてしまった。 あーあ、本当にわたし涙もろくなったよなぁ。男のくせにみっともないとは思うけど、止められないものはしょうがない。「みんな本当にありがとうね。一日も早くみんなの前で唄って踊れるよう、毎日リハビリ頑張ってるんだ! だからほら、一週間でもう立てるようになったんだよ」 そう言ってノートパソコンをテーブルの上に置き、立ち上がろうとするわたし。 まだ安定性には欠けるけど、どうにか自分の足で立ち上がることが出来た。隣であか姉がハラハラしたような顔で見てるけど。【あんまり無理はしないで】【ワイらはいつまでも待ってるから】【生まれたての小鹿みたいになってるやん】【怪我する前に座って!】 うちの姉妹だけでなく、リスナーさん達もわたしには過保護だな。「これくらい大丈夫だって。なんならターンしてみようか?」 調子に乗ってターンをしよう
日々続くリハビリは、思った以上に大変だった。 まずは寝返りや座ることから。最初の内はそれすらも大変で、どうにか寝返りを打てると言った状態だった。 それから座ることも難なく出来るようになったかと思ったら、息つく暇もなく自力で車いすに乗ることを特訓。 これが想像以上に困難なことで、立ち上がろうとしても膝が笑って上手くできない。看護師さんの介添えがあってようやくといったところ。「えへへ。密着出来て幸せぇ」 一部、邪な考えで介助してくれている人もいるけれど。 一度より姉に見つかって、ナースステーションで担当替えを真剣にお願いされていた。できればわたしも替えて欲しい。 でも決して手は出させませんという言質を得て、どうにか引き下がっていたようだ。そこで納得しちゃうのね。 わたしの不安な気持ちと、あの舐めるように見てくる気持ち悪い視線からは解放してくれないのだろうか。 病院も人手不足なのはわかるけど、あんなのを特別病棟に配置して評判に関わったりはしないんだろうかと心配になる。「今まではもうちょっとマシだったんですけどね」 他の看護師がそう言ってフォローしてたけど、正直何の慰めにもなってませんよ? むしろエスカレートしてるってことで余計不安になったわ。 だけど車いすに乗って久しぶりに外へ出たのは気持ちがよかった。すっかり忘れかけていた風の匂い。 そこには微かに草木の匂いが混じり、まもなく訪れる生命が謳歌する夏の気配を感じさせる。でも今日は少し湿っぽい匂いも混じっているから、雨でも降るのかな。 以前と違って色が見えるようになったわたしは、外の景色をいくら眺めていても飽きることがない。 目を凝らせば色というのはあちこちに散らばっていて、普通に暮らしていれば気づかないようなところにも鮮やかな色が潜んでいる。 例えばビルのひび割れから生えた生命力に溢れた雑草の緑。暗いアスファルトの隙間から顔を覗かせるたんぽぽの鮮やかな黄色。 普通の人なら気づくことなく通り過ぎてしまうその景色も、今まで違う世界を見ていたわたしには物珍しい。 部屋にいてもスマホやテレビを見ている時間より、窓の外を眺めている時間の方が長いくらいだ。「なぁに、また外を見てるの?」 今日はひよりの番なのか。「うん、今日も外の景色がキレイだからね」「やっと見えるようになっ
「……」 ごめんなさい、冒頭から言葉が出ません。 より姉の部屋で指定のドレスに着替えたんだけど……。「より姉、ナニコレ?」「ん? ドレスだが?」 それは分かるよ。うん、ドレスだね。 何の服かを聞いてるんじゃないんだよ。問題はそこじゃなくって。「上半身の布地がえらく少なくはありませんか?」「そうか? そんなもんじゃねーの?」 そんなもんであってたまるか。なんだこの露出の激しさは。 背中はがら空きだわ、胸は半分見えてるわ、腹部に穴が開いておへそが見えてるわ。「なんだ、寒いのか?」 そうじゃねーよ。 もうすぐ夏だし、寒くはない。 体はね。 でも心が凍えそうだよ。「も
今日からいよいよ新学年。「ゆきちゃん、最後までよろしくね」「よろしくー」 結局、文香と穂香は中学から数えて5年間、ずっと同じクラス。 生徒会役員をずっと同じクラスに固めてよかったのかな。先生方は何を考えているんだろう。「驚いてるね」「そりゃそうでしょ。なんせクラスを分けたら生徒会解散の危機になるって脅したしね」 なんということを……。 金剛力士様恐るべし。「最後までゆき会長を支えていかないとだからね」「祀
「はい、こっち向いて笑って~」 指示されるとおりにポーズを取ると、そのたびにフラッシュがたかれていく。 最初は渋々引き受けたモデルだったけど、撮影が進むうちにだんだん変わってきた。 なにこれめっちゃ楽しい!「その表情いいわね! もう少しだけ右を向いてくれるかしら」 レイさんの言葉に嬉々として従ってしまう。カメラマンってすごいな。 被写体の魅力を引き出す能力に長けているんだろう。声をかけられ、従っているうちにどんどん気分が高揚してくる。 もともとカメラの前に立つのは慣れているし、決して嫌
ひよりとの初配信は大成功で、再生数も今までの神回に負けないくらいの勢いで増えていった。 すっかりダンスの楽しさに目覚めてしまったひよりは、次の配信に向けて昨日とは別の楽曲のダンスを練習し始めた。 そして配信が終わった翌日の日曜日。 まだみんなが寝ている早朝からわたしはスタジオでひとり、ダンスの収録に励んでいた。 昨日、ひよりがわたしのアバターを使っていたのを見て思いついたこと。それを早速試してみているのだ。 まずは普通にダンスを踊りながら、優れた空間認識能力と記憶力を使って自分の動きを頭に叩き込む。